ケータイ=命
ケータイは命と同じくらい大事なもの、なのかもしれない。
毎日何時間もケータイを見ているし、すぐそばにないとおちつかない。
でも、ケータイで何を見ていても所詮私はひとりぼっちなんだということを感じる。
LINEの通知はほぼ来ないし、来ても業務的なことだけ。電話もかかってこないし、メールはメルマガだけ。
一人が嫌になってTwitterを開けばフォローしている人たちは友達や相方と楽しそうである。
私はいつもそれを見ているばかり。ひとりの部屋で、カーテンも開けず、ベッドにうずくまって、楽しそうな光景をただ静かに見つめるだけである。
ケータイで仲間を探したところで、ずっとひとりなのだ。
そう考えると命と同じくらい大事なはずのケータイは、命と同じくらいはやくはやく消えてほしいものでもある。
ケータイは、さみしさを埋めてはくれないし、友達を救世主を与えてくれない。
カメラで脚でも晒したら、自尊心が満たされて、囲いができて、少しはさみしさが紛れるのかもしれない。
それでも、ケータイと名付けられた鉄の塊は、私のそばにある。何の通知が来なくても、仲間がいなくても、ないと泣いてしまいそうになるから、ケータイはやはり私の命に等しいのだ。